Yarn Getting Tangled

美術のこと、読書のこと、編み物のこと、大学院生から引きずっている適応障害で休職している日々のことを綴ります。

適応障害、すべて自分の妄想なのでは説に苦しむ日記

今日は授業とアルバイト。昨日あまり眠れず、ぼうっとする頭で不機嫌になりながら朝着替えていると電話があって、明日予定していたカウンセリングが二週間後に延期になった。

 

私は6月ごろから、学内のカウンセリングを月に二度ほど利用している(こういう支援が無料で受けられるのは大きな総合大学に進学してよかったことの一つだ)。毎回一時間のセッションで、近況や悩み事をカウンセラーの方に聞いてもらう。授業が不安だ、ゼミが怖いという話をしていると、比較的元気なときでも大抵泣いてしまって、カウンセリングが終わったあとは毎回ぐったりしている。だが、そうやって二週間に一回、心の丈を吐き出せる機会は貴重だ。利用し始めてから5か月ほど経過して、最近はカウンセラーの人に慣れてきたこともあり、普段から症状が強く出た時は「今度カウンセリングの時に話そう」と考えて気持ちの安定を図っていた。

だから、いきなりカウンセリングが延期になってしまったのはかなり打撃だった。もちろん、カウンセラーの方にもご都合があるだろうし、代案も提案してくださったのだが、すべて私のバイトの日程で埋まってしまっていたので、それは仕方がない。

ただ、それで不安になったのだろう。

 

私は本当に病気なのだろうか。

今日、登校するときやバイトに向かうとき、帰宅後疲れ果ててベッドにのびているとき、ずっとこの問いが頭から離れなくてしんどかった。

私は本当に病気なのだろうか。ただ、甘えているだけなのではないだろうか?

 

進んでもいない修士論文の構想を、中間発表のためにそれらしく練らなければならないのだが、最近道を歩きながら(修論、今日も進まなかったな……)と思うと少し呼吸が苦しくなって、意識的に大きく息を吸って吐かなければならない。

研究室に入る前は、必ずドアの前で立ち止まって、動悸を抑えるために一回深呼吸してからでないとドアノブを回せない。

バイトに通勤する電車の中で、不意に涙があふれてくる。そういうときは、なるべく顔を歪めたり嗚咽したりせずに背筋を伸ばして、何でもないような表情をとりつくろいながらハンカチで涙をぬぐう。

なんとか一日の予定を終えて家に帰ってくると、肩と頭がずきずき痛み、ベッドから動けなくなる。

 

こういう症状、確かに苦しいけど、全部ただの思い込みなんじゃないだろうか。もしかしたらこうやってつらつらと症状を書くことすらも、自己憐憫に浸りたいがためだけの自己満足なのかもしれない。こういう「適応障害、すべて自分の妄想なのでは」説を唱える自分が脳内にいて、日に一度は声高に訴えてくる。今日はその声がかなり自分に刺さってしまったみたいだ。

 

本当は大学院もすっぱり辞めてしまうべきなのだと思う。ずっと自分なりに意欲をもって専攻してきた美術史に関係するはずの講義やゼミの内容にもとんと興味がわかず、修論も最低限の課題をクリアするためにいやいややっているようなものだ。研究室の先生や同期、先輩となるべく顔を合わせないようにびくびくしながら大学に行って、私は何をしているのだろう。

それは怖いからだ。身体も気持も休みたいと言っている。精神科でも診断を受けた。指導教官に休学の相談もした。なんならフリーター向けの就活アドバイザーに面談まで行った。でも、結局これは単に勉強をしたくないからではないか、同期についていけない自分を直視したくないだけではないか、すべては私の甘えで、ここでふんばらなければ将来一生後悔したまま生きることになるのではないだろうか。

こうした恐れは、きっといくらカウンセリングを受けても、周りの人に休んでいいんだよ、がんばっているよと言われても、自分で納得しない限りは、弱った自分を受け入れられない限りは消えないんだろうと思う(むしろ優しい言葉すらも「自分の妄想なのでは」説に聞こえてしまって、本当に申し訳なくなる)。それか、今の環境を修了という最善の形で終えるか。

 

こんな状況では、後者は望み薄だ。でも、自分の今の状況はただの甘えだろうという自分自身の声も無視できない。6月くらいから膠着状態が続いている。

どうしたらいいんだろう。もうわからない。

 

普段からとりとめもない記事だが、今日は一段とまとまりがなく、ただ不安を書きなぐった日記になってしまった。調子の悪い時の状態の記録ということで、ひとつ。